裏千家茶道教室
大阪天満宮内「梅香学院」茶道教室のサイトです
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■日本の伝統
 一昔前、茶道といえば華道と並んで花嫁修業の1つに数え上げられていました。 それは女性のたしなみとして、また教養として日本の伝統を身につけるという意味で、稽古事を習われたのでしょう。
 時は21世紀、国際化の波が押し寄せ、自由なライフスタイルが提案されていますが、その一方では日本の伝統が失われつつあります。 意気揚々と留学や出張などで海外に出られた方が、帰国後、慌てて伝統芸能などを習い始めるという話をよく聞きます。 日本に関心を持つ外国の方が、日本の伝統について質問をしても、それに上手く答えられないからです。
 「さび」や「わび」の心をどのように説明しますか?

■総合芸術「茶道」
 茶道は「日本の総合芸術」であり、日常生活では「生きた知恵」として応用できます。 茶道といえばお点前や挨拶などの作法が大変…というイメージをもつ方もいらっしゃるでしょう。 しかし、フランスの社交界の重鎮はこう述べています。 「日本には茶道という素晴らしい社交術がある」と。

■平常心是道
 人間関係などストレスの多い社会では、自分の精神を安定させる方法を心得ておくことと同時に、処世術ならぬ社交術を身につけることが必要となってきます。 茶道はこれら諸問題を稽古によって修道することで、自ずと解決できるように体系化された習い事となっています。
 まず自分を見つめ、適性を見出し、そして個性を開花し、社会において自己実現を果たす…、これ以上の幸せは無いでしょう! まずは、一服いかがですか?


 
稽古場に付いて

【日 時】 第1、2、3週の木曜日 17:00〜21:00(最終稽古場入りは20時まで)
 ※大阪天満宮の都合などにより、週が変更されることがあります。

【場 所】 大阪天満宮内 梅香学院
 JR東西線「大阪天満宮駅」3号出口から南へ徒歩5分
 大阪市営地下鉄谷町線・堺筋線「南森町駅」4号出口から南へ徒歩5分

【講 師】 村司 宗弘(正教授) おけいこいちばん「むらじ茶華道教室」
       山根 宗康(準教授) 実地指導担当


【月 謝】 ¥7,000(水屋料込み)
       ※別途、入会金¥5,000が必要です。

【稽 古】 割稽古 盆略点前 平点前 小習い 花月之式
 ※旧暦8月15日(中秋の名月)に行われる「秋思祭」の拝服席をご奉仕します。
 ※梅香学院文化祭(10月)の呈茶席を担当します。


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山根 宗康
角丸四角形吹き出し: 大阪天満宮の巫女さんと一緒の教室です!
神社の清浄な神域でお稽古できるチャンスです!

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▼茶の歴史    社団法人 茶道裏千家淡交会 『会員のしおり』より
■茶は南アジアを原産地とし、中国に伝わって解毒用等に飲まれていましたが、しだいに嗜好として流行するようになりました。 八世紀半ばの唐の時代、陸羽が『茶経』を著し、茶の起源、造り方、飲み方等を詳しく論じています。 そのことのお茶は、茶葉を蒸して固めた団茶を粉にし釜の湯に溶かして飲むものでした。
■日本における茶は、唐に渡った僧たちが帰朝の折に将来したのが始まりといわれています。 延暦二十四(八0五)年、最澄とともに戻った大僧都永忠が茶の実を比叡山の麓(現在の滋賀県坂本・日吉大社)に植えたと伝えられています。 けれども、そのころは茶の量も少なく、貴族や僧侶ら限られた人が飲むだけでした。
■現代のような茶の隆盛は、鎌倉時代に萌芽が見られます。 臨済禅を修めた栄西禅師が宋から喫茶法を持ち帰り、禅の修業とともに抹茶を嗜んだと伝えられています。 鎌倉幕府の三代将軍・実朝公が病気になったとき、栄西禅師が薬にと茶をすすめ『喫茶養生記』を差し出すや、実朝公は快方に向かったということです。
■栄西禅師が持ち帰った茶の実は、肥前平戸島や筑前背振山に根づき、今日でも茶園が広がっています。 さらに、京都栂尾の明恵上人が茶の木をもらい受けて育て、栂尾茶は「本茶」といわれるまでになりました。
■こうしてお茶は、禅の修行と相まって徐々に普及していきましたが、民衆の間には、奈良西大寺の叡尊僧正が蒙古襲来の際に行った献茶式で茶を振る舞ったのに始まるようです。
■さらに時代が下ると、公家や僧侶、武士達の多くは茶を飲み分ける「闘茶」に興じ、民衆は祭礼の時などでの立売り茶を楽しみました。 一方、禅院では、「四つ頭の茶礼」などと儀礼的に飲まれるようになり、「茶の湯」の語も生まれました。 そのころになると、茶の栽培の中心は、栂尾から面積の広い宇治へと移っていました。
■時代が南北朝から室町、戦国の世へと変動していくにつれ、「茶の湯」はより高い精神性をもって洗練されていくのですが、それには茶祖といわれる村田珠光から武野紹鴎、そして千利休大居士の力を待たねばならないのです。
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▼茶道の実践

道 学 実  
  社団法人 茶道裏千家淡交会 『会員のしおり』より
 
■「茶禅一味」といわれるように、茶を修得し”道”を求めてゆけば、自ずと禅の根幹へと通じます。 茶道の本質を見極めることはすなわち、禅にいう悟りを目標として研鑽を積む修行態度に重なるものなのです。 珠光は一休禅師に、利休居士は大林、笑嶺、春屋、古渓らの禅師に、さらに歴代宗匠も参禅してその薀奥を究められていることは、その心を自ら実践されていることに他なりません。
 
■学ぶとは、「まね踏む」ということ。 先人の後をなぞり踏みしめてゆくことで自己の知識を重ねていくのですが、ただ頭で得た知識はいわば”借りもの”、学びとった知識は実践して初めて体得したといえます。 本を読み、言葉での知識を得てもそれでけのこと。 百回でもニ百回でも繰り返し棗をふき自分が満足するまでに至ってこそ、お茶に対する悟りといえるのです。 茶道の内奥への探求は、真摯に学び体得しましょう。
 
■道・学をふまえた上で、茶道を実践することによって初めて茶の本質に触れることができるといわれています。 「実」とは実践。単に手順通りきれいなお点前をすることに止まらず、お点前にかかわるあらゆることが実践を意味します。 たとえば茶事において、時と場所が違えば自ずと茶事も変化するものです。 その時、相手の立場に立って仕え合い、心尽くした茶事を催す。 そうした様々な実践を重ねて、道・学・実の修練に励みましょう。
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▼四規

和 敬 清 寂  
  社団法人 茶道裏千家淡交会 『会員のしおり』より
 
■主客が一碗のお茶を介して一座建立する。 茶のどの部分をとっても「和」という根本理念が流れています。 それは茶人たるものは腹を立てずとか、仲良くすべきだといった表面的なことだけではありません。 己の心の和、道具などの取り合わせの和、そして席中、相客の和、これらが合わさってこそ、心の乱れのない点前がなされるのです。 かつて聖徳太子の十七条憲法の冒頭において「和を以て尊しとなす」と唱えられています。 また、人の心の和とは、禅の悟りの境地を表すものでしょう。 この普遍なる価値を有する和は、茶の修道においても、主客、師弟それぞれの立場で真に求められるものです。
敬 
■人を敬い、自らを慎むこと。 お互いに慎み合い、敬い合うことがなければ、どんな茶事や茶会でも自己満足で終わってしまいます。 また、道具への敬の念、弟子から師へだけでなく師から弟子への敬の念、仕え合いながら自然に「敬」の心を育んでいきたいものです。 山上宗二記には、「上を粗相に下を律儀に…」とまで記しています。 上にへつらうことなく、下には丁重に接することで、敬し敬される関係が生まれます。 宗家を訪問する機会を得て、兜門から利休御童祖堂の佇まいに、襟を正し身を引き締める心。 その敬虔な気持ちを想像し、どんな時、場所においても「敬」に思い致しましょう。
清 
■清らかであること。 たとえば茶室に入る前には、必ず手水鉢で手を洗い口を漱ぎますが、それは単に目に見える汚れを洗い流すばかりではありません。 利休居士も、露地・草庵の大本として、「たがひに世塵のけがれをすすぐ為の手水ばち也」と説かれているように、手水の水には心身を清めるという意味合いがこめられているのです。 また、現在でも神社へ参拝する前に手水を使うことからすれば、手水で清めるほどの”神聖な場としての茶室”という位置づけが示されているといえましょう。 日々の掃除を怠らず、身体を洗い清めることは、同時に内からも清めているのだという気持ちを大切にしましょう。
寂 
■寂、すなわち静かで、なにものにも乱されることがない不動心を表しています。 客はしずかに心を落ち着けて席入りし、床の前に進む。 軸を拝見しそこに書かれた語によって心を静め、香をかぎ花を愛で、釜の松風を聴く。そして感謝をこめて一碗のお茶をいただく。 こうした茶の実践を積み重ねていくと、自然の中にとけこみ自然をみつめ、自分をも深く見つめることができます。 まさに自然と同化することによって、寂の心境に至るのです。 心に不動の精神を持っていれば、どんなことにもゆとりを持ってやっていけるという心の大きさが生まれます。 そうしたゆとりの中にこそ、茶の道が奥深くひらけていくことでしょう。
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▼七則

 茶は服のよきように点て、
 炭は湯のわくように置き、
 冬は暖に夏は涼しく、
 花は野の花のように生け、
 刻限は早めに、
 降らずとも雨の用意、
 相客に心せよ  
  社団法人 茶道裏千家淡交会 『会員のしおり』より
は服のよきように点て 
■「服のよき」とは、さしあげる相手が飲みやすいように、適度な湯加減と茶の分量でお茶を点てるということです。 熱すぎてもいけませんし、ぬるすぎてもまずくなってしまいます。 抹茶には濃茶と薄茶の別があり、製法から入れ方まで異なります。 濃茶はお客様の人数分の分量を一碗で練りますし、薄茶は一人ずつ茶筅で点てて出します。 それぞれの加減を体得するためには相当な修練が必要になります。 さらに、形通り点てても心がこもっていなければ何にもなりません。 亭主は一期の心意気を一碗にこめ、客はその心を感謝して服す。 そういう主客の直心の交わりがあって初めて、本当の意味での「服のよき」お茶が供されるのです。
は湯のわくように置き 
■炭手前は、茶の湯で大事な手前です。 炭は押えつけず風通しよく組み、灰形を整える。 一連の手前を炉では近くににじって拝見します。 亭主が釜を上げたときの下火の風情、灰の様子、ついだ炭に火が移る風趣…。 自然の営みを凝縮したかのような炭の勢いに心打たれます。 こうして途切れなくつがれた炭火によって釜の湯が沸くのです。 茶を点てる湯は沸騰させればいいのではなく自ずから適度な温度があります。 釜の湯の沸くシュンシュンという音を聴き点前に適った湯の熱さ加減を知ること。 茶の湯の基本は、文字通り湯相と火相にあり、時・場所に応じてそのバランスをとり、おいしいお茶を点てることに全神経を集中したいものです。
は暖に夏は涼しく 
■冬は暖かく夏は涼しく過ごしたいと思うのは誰しもでしょう。 けれども、茶の湯において、現代の空調設備を駆使して人工的に快適にすることとは、自ずから意味合いが異なります。 利休居士が問われて「夏はいかにも涼しきように、冬はいかにも暖かなるように」と答えられたように、「いかにも〜ように」という心ばえを生かした工夫が求められるところです。 茶事も、夏ならば朝の涼しいうちに催し、茶室の中、露地、道具の取り合わせにさまざまな配置がなされます。 自然に対抗するというより自然に融和し、四季の移ろいの偉大な恵みを主客ともに分かち合う気持ちのなかから、お互いのさりげない気遣いが生かされてくるものです。
は野の花のように生け 
■茶花は、自然にあるがままを茶室に移し生けます。 生け花とは違い、ことさらに技巧は加えません。 ただ、「野にあるように」というのは、山野一面の花をそのまま花入れに放り込むことではなく、一輪の花であっても、その花が自然から与えられている全生命を生けるという心が大切です。 『南方録』には「小座敷の花は、かならず一色を一枝か二枝かろくいけたるがよし」とあり、茶室には一種の一枝ほど生けて、装飾的なものは最小限に止めるのがよいとされています。 「かろく」とは、たっぷり生けてその美しさを愛でるようなことは、わび茶にはふさわしくないと戒めているのです。 花の持つ命を十全に生かしつつ、茶の湯での位置づけに心配りましょう。
限は早めに 
■約束の時間を守ることは当然ですが、なかなかに難しいものです。 決められた時間に遅れないために、なにごとも早めにすることを心掛けましょう。 早め早めに行動すると、それだけゆとりができ心に余裕が生まれます。 時間は何ものにも代えがたく貴重なものです。 時間を尊重すること、すなわち自分の時間を大切にし、余裕を持つことで相手の時間も大切にできる。 そうして、大切な時間を合わせてなされる一期一会を大切に尊重することが、茶の湯の基本です。 必要以上に早過ぎても失礼になりますが、遅刻はもってのほか。 他人の時間を自分の責任で空費させることだと、厳に戒めましょう。点前作法の中でも、大切な瞬間を意識するように教えています。
らずとも雨の用意 
■今は天気であっても傘雨具の用意はしておくようにということ。 それは傘に限らず、いついかなる場合でも適切に応じられるだけの心構えを持ち、また実際の準備を常々怠らないことです。 そうすれば、どんな時にもあわてず、心のゆとりを持って対応できるでしょう。 落ち着いて臨機応変の処置ができるものです。 茶の湯においては、殊の外はじめの準備と後始末について厳しく注意します。 点前作法は、これ以上簡素化できないほど洗練されたもので、忠実に点前を習うことから稽古が始まります。 まずはそのための準備であり後始末なのですが、修練を積むにしたがって自信が生まれ、ゆとりを持って何事にも自然な心で用意ができる。 そうなることをめざしているのです。
客に心せよ 
■一碗のお茶を介して同席するお客様への心遣いのことです。 亭主から客だけでなく、正客は次客の、連客はお詰めの、それぞれの立場を考えて動作することが大切です。 そうして初めて和やかな茶席の雰囲気が醸成されていくのです。 お互いの心の動きを察し、相手に迷惑をかけず、恥をかかさぬようにいたわる心が自然に発揮される場は、とても心地よいものです。 たとえば茶事において、亭主はまず連客を付記して案内を出します。その返事の仕方、連客同士の打合せなど、主側の配慮はもちろん、客から主へ、客同士の心遣いも忘れずにしたいものです。 まさに「仕え合う」ことの実践なのです。
■七則は、ある人が「茶の湯の極意を教えてほしい」と利休居士に訊ねたのに答えたものです。 ところが、その答えが当たり前すぎたので「そんなことは誰もが知っています」と言うと、利休居士は「この心に適う茶ができるのなら、あなたの弟子になりましょう」と言われたそうです。
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▼わび茶の心    社団法人 茶道裏千家淡交会 『会員のしおり』より
■『南方録』の中で、わびさびの茶の心について、武野紹鴎と利休居士とがそれぞれ語られています。 紹鴎は、新古今集の藤原定家の歌を引いて
  見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕ぐれ
 花や紅葉=書院台子を眺め尽くしたところに、浦の苫屋=無一物のさびの境地がひらかれる、としました。
■利休居士は、さらに加えて、藤原家隆の歌を引いて説かれています。
  花をのみ待らん人に山ざとの 雪間の草の春を見せばや
 人は花がいつ咲くかと待つばかりだが(花や紅葉は自分の心の中にある)、雪に埋もれた山里(苫屋のさびの風情)の雪の間にのぞく春の芽吹きこそ、作為のない真の感興である、としました。
■利休居士は、書院台子の茶もわび茶も心の有り様としてとらえ、さらに、無一物をも超えた自然の雅趣を求めて奥深い道をたどられたのです。
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